-穢れに飲まれて-
穢れに飲まれて
 鏡子
 「逃げてっ!! 早くここから逃げて!!!」

 鏡子の声に八重はびくりと背筋を伸ばす。鏡子が言っているのは正論だ。それはわかっている。
だが、八重はぐっと唇を噛み締めると叫び返した。鏡子をこのまま見捨てて逃げるなど、出来るわけがない。

 八重
 「馬鹿なこと言わないで下さい! 今、助けます!」

 鏡子 
 「だめっ! 早く……んぎいいいいいっ!!!」

 鏡子の反論は途中から苦悶の叫びに取って代わられた。焦る八重の目の前を塞ぐかのように触手の壁ができあがる。
肉色のおぞましい壁は、うぞうぞと蠢きながら八重の視界から鏡子を隠してしまった。
妖魔は八重の背丈を越えるほどに巨大だ。どうやってこの状況を打破したらいいのだろう。八重は内心臍をかむ。
 手持ちに呪符はない。これだけの力を持つ妖魔を祓うことができる術を執り行うには、時間がかかる。

八重
 (何とか志乃を見つけて、鏡子先生を助けないと!)

 今、勝機があるとしたら、志乃と合流してとにかく体勢を立て直すことだけだ。
それだけを考え、八重は必死に足を動かす。背後から聞こえる苦しげな鏡子の叫び声には出来る限り耳を塞いで。
 背後から風を切って物体が飛来する感覚がする。
勘だけを頼りに、八重は右に飛んだ。風切り音と共に、今までいた空間を触手が薙いでいく。
走り続ける八重の背筋に流れたのは、冷たい怯えの混じった汗だった。
 ともすればもつれそうになる足を必死に動かし、八重は体育館の角を曲がろうとした。その時。

 八重
 「──えっ!?」

 がくんと衝撃が走り、身体が動かなくなった。慣性の法則のままに、前方につんのめりそうになる八重。
足元を見ると、細い足首にくるりと巻きついた肉色の紐が映った。
背筋に氷の塊を押し付けられたかのようにぞくりと冷たいものが這い上がる。
後ろを見るのが怖い。背後から迫ってくるのは……絶望からの使者なのだから。

 八重
 「そんな……まさか……」

 ──いや。いやだ。こんなことってあるものか。
 闇が大きく腕を広げ、座り込んだままの八重の上に覆いかぶさった。
目を見開いたまま、氷の彫像の様に動けないでいる八重に、覆いかぶさるように触手の群れが襲いかかる。
それは、いやらしい肉色の津波になって八重をあっさりと飲み込んでしまった。

 八重
 「い、いやあああぁっ!!! このっ……放して!! くううっ!!」
(本文より一部抜粋)
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